摂津之国 国分寺の歴史


国分寺は明治6年まで1宗1派に属しない勅願道場として独自の地位にあり、江戸時代、関所道中御免の鑑札発行所としての特権を与えられ、また全国各地に有縁の衆徒数千人を数えるなど隆盛を極めましたが、その後の廃仏毀釈や神仏分離の影響は免れず衰退するも明治末期に教昇大僧正が国分寺の再興を果たされ、戦後になり真言宗国分寺派を公称、大本山国分寺として現在に至る。


寺伝によると、大化元年(645年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(741年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。

しかし、長い歴史の中幾度も戦火に晒され、中でも豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣、元和元年(1615年)には全焼、その後約百年余り荒廃の極みであった。
そして江戸時代、享保三年(1718年)に中興の祖律師快圓により再建され文献に登場する。
國分寺

國分寺村にあり。正國山金剛院と號す。眞言律宗。
本尊阿彌陀佛 聖徳太子御作。坐像三尺五寸計り。
赤不動尊 弘法大師作。初めは高野山に安置しけるなり。
敷石地藏尊 初め玉造鍵屋坂にありしなり。
當寺は國毎の國分寺の其一箇寺にして、本願は聖武帝、開基は行基僧正なり。荒蕪の後、快圓比丘中興して律院となる。國分寺料むかしは一萬五千束、其外施料の事〔延喜式〕あるは〔文徳實録〕にも見えたり。又東生郡にも國分寺あり。何れ一箇寺は國分尼寺の跡ならん。後考あるべし。

國分寺
國分寺村ニあり長柄に鄰るを以て世俗長柄の國分寺といふ正國山金剛院と號す眞言律宗
本尊 阿彌陀佛 座像長三尺五寸許聖德太子御作
地藏堂 本堂東傍ニあり俗ニ敷石地藏尊といふ其はじめハ玉造鍵屋坂にありしをこゝに遷すといふ
敷石地藏尊 初め玉造鍵屋坂にありしなり。
護摩堂 本堂の前西傍ニあり本尊不動明王長三尺五寸許 弘法大師作にして俗ニ赤不動と稱す左右ニ 羯羅制多伽の兩童子を安す前に毘沙門天王脇士左愛染明王 右觀世音 本尊不動明王ハ其はじめハ高野山に安置の尊像なりとぞ靈驗志ば〃〃あらたなりといふ
當寺本願ハ 聖武天皇開基僧正にして國毎に建營ありし國分寺の其一寺なり荒蕪の後快圓比丘中興して律院となる國分寺料むかしハ一萬五千束其餘施料の事延喜式および文德實録にも見へたり又東生郡にも國分寺あり何れ一箇寺ハ國分尼寺の跡なるべし後人尚考ふべし
  聖武天皇御真影(古図修復)
聖武天皇御真影(古図修復)

難波往古図より
難波往古図より

第二次大戦直後(空撮)
第二次大戦直後(空撮)

2010年現在の国分寺
2010年現在の国分寺

このような伽藍も明治の廃仏毀釈などの混乱期に境内地が縮小され明治三十年(1897年)には時の座主教曻により諸堂修営され聖武天皇尊殿や記念碑が建立されるも、昭和九年の室戸台風により甚大な被害を受け、更には昭和二十年(1945年)第二次大戦の大阪大空襲により旧書院門(現山門)を残し寺宝諸共灰燼に帰した。

戦後、境内地は区画整理や一部官有地であった為、大幅に縮小されるも、順次再興し、昭和四十年(1965年)昭和金堂を天平の古式にのっとり落慶、昭和五九年(1984年)弘法大師千百五十年御遠忌の頃現在の姿となる。